徳川家康とは?

徳川家康の生涯を解説(前半)生誕から天下人になるまで

徳川家康とはどんな人物でどんな生涯を過ごしたのか。
6分で解説した解説動画をご紹介させていただきます。

今回の動画は徳川家康誕生から、あの歴史的な事件「関ケ原の戦い」を経て徳川家康が天下人となる直前までの生涯を振り返っています。
文字起こしもしておりますので、ぜひ参考にしてみてください。

動画

【漫画】徳川家康の生涯を6分で簡単解説!(前編)【日本史マンガ動画】

動画の要約

※完全文字起こしではありません。詳細の確認をしたい場合はぜひYoutubeをご覧ください。

江戸幕府初代将軍徳川家康
混沌とした戦国時代を終わらせた人物です

家康の開いた江戸幕府はに150年余も続きました。

家康は【いかにして天下を治めたのか】その生涯を漫画で振り返ります。

1543年 家康誕生

家康は三河国現在の愛知県松平家の嫡男として生まれます。

母の兄 叔父が尾張の織田家と同盟を組んだことで両親は離婚。家康は3歳にして母親と生き別れることになります。
その後今川氏の人質として駿府へ送られます。
その後今川義元の姪 築山殿と結婚。家康は今川家の重臣候補となっていました。

1560年 桶狭間の戦い

今川義元は2万5千人もの大群を率いて尾張国・織田領に侵攻。家康も今川軍として参加していました。
今川軍に対して織田軍は数千人規模
今川軍の勝利は揺るがない・・・はずでした

「今川義元討死」

織田信長は少数の軍勢で今川の本陣を吸収。そして今川義元を打ち取ります。
義元の訃報を聞いた家康はうろたえ大樹寺でで自害しようとします。

しかし、
「やめろお寺の中でやめろってなんで寺の中でやろうとするの!?やめろって服着ろっ」
住職の登誉天室に諭されて考えを改めます。

家康「独立でもするか・・・」
家康は今川家からの独立を決意します

1562年 徳川家康に改名

信長と清洲同盟を組み、名前を徳川家康に改名

1573年 三方ヶ原の戦い

領地を侵食しつつあった武田信玄と衝突。
信長の力を借りて応戦しますが大敗・・・

1573年 武田信玄の死

武田信玄が病気でこの世を去ります。
家康「信玄は消えたこれでもうだけだけを恐れることはない」

1575年 篠の戦い

家康は織田軍とともに武田勝頼を撃破。領地を取り戻すことに成功します

家康「信玄のいないだけだけなど敵ではない!」
そんな中、家康の人生に大きな衝撃が走ります。

信長「お主の妻と長男は武田に通じていたのではないか?内通者は許さん!!」
家康「そんなことはありません誤解です信長どの!!」
信長「切腹させろ」

信長は家康に対して妻・築山殿と長男・信康を殺すように命令を出します。

家康「ここで信長との同盟関係が崩れるのはまずい。まずいが、しかし、、、」
家康は熟慮の末、築山殿殺害、信康を切腹させます。

家康「すまない、許してくれいぃぃ。。。」

1582年 駿河を獲得

武田家滅亡の際、家康は駿河を獲得。幼少時代を過ごした駿府に戻ります。

1582年6月 本能寺の変

明智光秀により織田信長が討たれます。日本の歴史を大きく変えた本能寺の変です。

その時家康は堺(現在の大阪)にいました。
遊びで来ていたため護衛は少数でした。

本多忠勝「家康さま!京で信長さまが明智に撃たれました!
家康「信長様が打たれその嫡男・信忠さまも自害された。このままではマズイ今明智軍に見つかれば終わる・・・かくなるうえは・・・」
家康は狼狽し信長の後を追おうとしますが、本多忠勝に説得されてとどまります。

その後、伊賀栗の山を越えて自分の領地まで逃げのびます。(伊賀越え)

本能寺の変後

明智光秀を討った羽柴秀吉が政治の主導権を握ります。
瞬く間に全国は平定され、ついには関白の地位まで手に入れます。

家康「こうなってしまってはもう秀吉に対抗できない・・・」
家康は秀吉のもとに就くことを余儀なくされます。
豊臣秀吉の手によって前国時代は幕を下ろしたかに思えました。
しかし

1598年 豊臣秀吉の死

秀吉がこのよう去ります。世は再び戦国乱世に戻ります。
これは徳川家康にとって「好機」であり「試練」でもありました。

今日の名言

「決断は実のところそんなに難しいことではない。難しいのはその前の熟慮である。」